「責任」をとるということ


佐川前国税庁長官の「証人喚問」がやっと、しぶしぶ認められたようです。まったくの素人が何もわからないで言わせてもらうと、『文書改ざん』はどう考えてもお役人が勝手にできることではない、と思います。こんな図は、あの『太平洋戦争』の図に間違いなく同じだと思いました。
自分に責任が及ばないように、切れるものから切っててゆく。この佐川さんは国税庁長の職位である程度の地位だったので、現場に配属された職業軍人、という感じ?です。(戦争だったら現場の指揮官として責任を持つ人、一概には言えないとは思いますが、「玉砕」の時には責任を取って自決するイメージ)そして敵ならぬ、味方の弾にあたった形での『辞任』です。
今も昔も変わらない「組織」のありように愕然とします。

昨年のNHKで戦争特集の中で、タイトルは忘れてしまったのですが、B29の焼夷弾爆撃の経緯を扱った番組がありました。
それは日本側からすれば、無慈悲で悲惨な焼夷弾爆撃だったのですが、アメリカ側からすれば、「戦争を早く終わらせる」という名分とともに立てられた作戦だったのです。

そしてやはりアメリカ側にも「組織」、それとともに個々人の「野望」も秘めていたのも「戦争」がやはり勝ってなんぼの世界であることを示していると思います。
「組織」の希望としては、「空軍」の設立。(それまでは「アメリカ陸軍航空軍」)個人の野望としては、ハンセル准将が焼夷弾爆撃の責任者を解任、ルメイ少将がヘンリー・アーノルド陸軍航空軍司令官の期待に応えようと、自分の責任として「焼夷弾爆撃」の成功を決意するのです。ルメイはB29の高度を変える作戦を慣行、冬のジェットストリームの影響を受けず、爆撃の精度が増し、アメリカ側にとっては「大成功」を収めました。
その作戦を思いついたとき、司令官であるヘンリー・アーノルド司令官には相談しなかったそうです。失敗したら「部下の責任」として自分が辞めればいい、と思ったそうです。
このくだりを見ながら、アメリカ軍の「人材の豊富さ」と「士気の高さ」なにより、「人は財なり」を感じました。

そして、印象に残ったのは、アーノルド司令官が恐れる人は、「ルーズベルト大統領」でその大統領が恐れる人は「アメリカ国民」だ、という説明でした。
「アメリカ国民」の「息子・夫を戦争から戻してくれ」という声が一番の恐怖だ、ということなのです。

常に「成功」に結びつかなければ、責任をとって「辞任」する、という組織の在り方がその組織を「まとも」にすることなのだと思うのです。

そしてルメイ少将が個人的思いを排除し、名目に掲げたことは、「日本国民の戦争への厭世観を持たせること」だったのです。
「国民が戦争をやめたい」という声が「早期戦争終結」に結びつく、と考えたのです。
その思惑がはずれたことへの言及は番組ではありませんでした。
その時に日本には「国民の声」を挙げる手立ても、そんな「権利」もなかったのです。

そんな時代に逆戻りしてはいけない。
黒幕を引きずり出すこと。トップは常に責任を伴うこと。トップを守るためにその下の者が責任を取る、ということがあってはならないと思います。
「極東軍事裁判」はもうないのです。