「アンというなの少女」~原作との違い~



「アンという名の少女」NHKで4話まで放送終了。
出だしちょっとつらいかな、と思っていたのだけど、マシューとマリラのアンへの愛情が伝わってきて、それに救われるようになってきました。

原作との共通点、相違点を事細かに比べることはしないけれど、個人的感想で一番の違いは、「マシューの力強さ」
馬車を走らせる場面は、多々あったけれど、馬に乗って疾走する姿が描かれることはなかった・・・・はず・・・・
もう少し太っていて、動作がゆっくりしてて、ともかく穏やかなイメージ。
この方(ドラマでの)だったら心臓発作で倒れることもなさそう、という気がしています。

そして何よりドラマは「リアリティー」を感じます。
本(原作)は、アンが孤児院から引き取られた孤児、ということをフワッと包み込み、冒頭のレイチェルおばさんとのトラブルぐらいで、ことさら「孤児院」も「孤児」も強調されることはなかった。
村の人々の集まりでも、学校でも、アンへの中傷があり、やっぱり本は、読者を考慮し、時代的宗教的背景、つまり「性善説」的な配慮があったのではないかと思います。

3話と4話のストーリーは考えさせれました。
学校に行きはじめたアンは、女子の輪に入るべく、過剰に得意な「お話」をし始めます。
上級生のプリシー(とても美人)とフィリップ先生が仲良くしているっていう話を自分の体験(子守として置かれていた家で)からきわどい話にしてしまうのです。

それはあっという間に広がって、プリシーの母が激怒。
村中大騒ぎになり、学校ではギルバート(やっぱりハンサムな男の子!)とのゴタゴタでフィリップ先生から怒られ、とうとう学校へいけなくなるアン。

アンがプリシーへの中傷をしたことがマリラに知るところとなり、マリラもアンへの怒りを露わにするのですが、マシューがアンを庇います。
「知らなくもいいことを知ってしまう環境に置かれていた」と。
このセリフには考えさせられました。
アンの環境は劣悪でした。
教育が受けられる環境ではなく、おそらく食べ物もたっぷりあることもなく、「子育ての手伝い」という「手」でしかなかったはず。
子どものしたことを叱る前に、その子が置かれた環境を振り返ることが必要だ、ということをマシューは言ったのです。

マリラはプリシーの母親に謝りに行きます。
アンのことも理解して欲しい、と。
拒絶するプリシー母。
彼女は「進歩的な母親の会」の中心人物ですが、会が「偏見」に満ちていることを露形させます。
「進歩的」がそこまで閉鎖的なら、こちらから願い下げと対抗するマリラ。(カッコいい!)

アンが学校へ行くふりをして行っていなかったことをマリラは重く感じて、牧師に相談します。
「女の子は学問よりも良い妻になる方がよい」と結論づけたことに疑問を呈するマリラ。
原作でも「手に職を」という発言をしていましたが、ドラマでは「牧師さんの言葉に疑問を感じる。自分たちの頃と今は違う」とまで言っていて、なかなかジェンダーにも踏み込んだ作りをしています。

その後アンはルビー・ギリスの家の火事を最小限にくい止める「活躍」をします。
孤児院で「消火の本」を読んだことで火事に対する知識があったのです。
ルビーはグリーンゲイブルスに一時保護をされ、アンとベッドを分け合い、アンと仲良くなっていきます。

この火事のシーンはちょっと疑問。
11歳の「児童」が燃え盛る家に入って部屋のドアを閉めてゆく、というシーンだったのですが、無謀すぎると思うのです。
アンの活躍ってことを強調したかったのだろうけど、あの時代でも今の時代でもちょっとあり得ないと。

ま、それはドラマってことで大目に見ましょう。