本多正信 ~嫌われれる勇気~


先日の「先人たちの底力 知恵泉」で本多正信が取り上げられていました。 深く面白い回だったと思います。
何より感心したのは、『石高』の話。

権力のある者は石高を低く、石高の高いものは権力を小さく

この正信の精神が徳川幕府の礎となり、260年も続く政権を支えたことです。

賢い者は知恵と勇気を兼ね備え無欲である。権力と家来財宝を望めば民は貧しくなる。天に背く行いは必ず疎まれ身を滅ぼす。

なんと賢い人だったのでしょう。
「嫌われても妬まれるな」をモットーの生涯、権力と財力があっても「命」がなければ何にもならないと「戦国時代」を生きた人ならではの刻み込まれた「信念」を持っていたのです。

もともと、どうして正信が嫌われてしまったかというと、譜代の家臣だったのにもかかわらず、25歳の時に、家康と敵対していた「三河一向一揆」に加わってしまったのが原因だったのです。

やがて一揆は家康に鎮圧され、正信の足取りはつかめなくなってしまいます。
6年後、なんと裏切られた家康は「戻ってこないか」と正信に声をかけます。その言葉に甘えて戻る正信。
「腰抜け・帰り新参」とバカにされながらもその後は家康一筋に働くわけです。

最近、会社を辞めて他の会社へ行った社員を再び雇うこともあるらしいのですが、究極の先駆けです。(主に刃を向けた行為を許されたのもすごいけど)
辞めた社員を再び雇うことのメリットは、戻ってくるととてもよく働くこと、即戦力になるということ、らしいのです。
「やめた自分をまた雇ってくれた」という恩を感じる、ということプラス本人の会社への再評価がモチベーションになるのでしょう。

その「太っ腹」なところを見せた家康もすごい。(信長も裏切った家臣を許す行為はしていました)
そして、本多正信を徹底的に使った手腕は、さすが天下をとった人なのだと思います。

正信もそんな「恩」を家康に感じたに違いありません。
正信がその能力をいかんなく発揮したのは「本能寺の変」後の武田家臣軍を家康側に引き入れたこと。
こちらにこないか、という手紙を書き、その上で直接会い説得したそうです。

正信の強味は、「自分こそ主を裏切って一揆に加わったのに許されて家康家臣に舞い戻った」という自身の体験談を語れること。
それが功を奏し、大成功を収めたようです。
その成功体験がその後の正信を支えます。
誰もがYes,というところでNo,を言い、立ち止まって考える時間を作ったり、あえて家臣を結束させたり、自分が嫌われることを恐れない姿勢を貫きます。

「嫌われても妬まれるな」
という正信の哲学はその生涯を貫きます。
子の正純が15万石の加増を受け、その後の「謀反」の疑いで失脚させられたのは、なんとも皮肉です。

(正純は)はめられたのでしょうけど、父の代からの教えが子で薄まってしまうのは、とってもよくわかる話ではあります。
実体験をしていない正純にとって、骨の髄まで染みわたる教えにならなかったのは、必然だったのだのです。