第57代ニューヨーク知事としての責任を負う準備は十分にできている


ニューヨーク州、キャシー・ホークル副知事「第57代ニューヨーク知事としての責任を負う準備は十分にできている」

という記事を目にしました。カッコいい。

かたや、

名古屋市の河村市長がかんだソフトボール日本代表選手の金メダルについて、組織委員会が交換する方向で対応を進めていることが分かりました。

の記事。
なんかね・・・・・・

まあ、クオモ知事のセクハラ辞任でのホークル副知事が知事に就任という流れを考えれば、金メダルをかんだ市長はそれよりもまし、なのかもしれないけど。

クオモ元知事と河村市長の共通項は「無意識の男性性優位」だと思う。
その現れ方は、「セクハラ」と「金メダル噛み」の超大と狭小に分かれてはいるけど。
河原市長は、若い女性の持ってきた金メダルだから噛んだのではないでしょう。(もちろん、一番嬉々としていたのは間違いない)
男性選手が持ってきても噛んだだろうし、3人で来たとしても、誰かのは噛んだだろうと思うのです。(それにしても、今まさに「コロナ感染」の時、この行為は行政の長としての無自覚さを露形したことでも恥ずかしい)

それは、「市長の俺」、という自我があって、この人の「おちゃめな自分」という無邪気さが、「市長の俺が金メダルを噛む」=「好感度」を産む、くらいの意識だったと思う。
クオモ元知事のセクハラとは角度が違うけど、根底に流れるものは同じなような気がします。(つまり「ニューヨーク州知事の俺」>「その他のものども」)

「英雄色を好む」というまことしやかな言葉があるけれど、外に向かうエネルギーを持っている人は、同時に自己の欲求ににも忠実で、「獲得力」もある。

NHK大河ドラマで吉沢亮君が演じている渋沢栄一も、相当なエネルギーを持ち、多数女性との親密な交際をしていたとか。

まあ、でも「セクハラ」と「愛人」はまた違う問題でもあります。

過去の歴史にはびっこっていた〇〇の地位だからこれくらい許される、という権力者への「寛容」は、少なくとも公では認められないのです。
しかも、SNSの時代では簡単にほころびがさらされてしまう。
SNSを素晴らしい、とは思わないけど、権力者への「足かせ」になることには賛成したい。

何が言いたいか、というとこの言葉に立ち返ります。
「実るほど首を垂れる稲穂かな」

そして、初のニューヨーク州知事、キャシー・ホークルに期待したい。