「“太陽にほえろ!”誕生~熱きドラマ、若者たちは走った」~「野生」よりも「知性」


6月18日放送のアナザーストーリーズ「“太陽にほえろ!”誕生~熱きドラマ、若者たちは走った」を観ました。
それを観て感じたのは「時代的」なおおらかさ。

スポットはマカロニ刑事こと萩原健一に当たって、ジーパン刑事こと松田優作があまり取り上げられていなかったのだけれど、監督の演出にも異を唱えることが出来た現場だったことに驚きました。
最初にキャストとしてジュリーこと沢田研二を考えていた、ということも驚きです。

萩原健一、松田優作らの「型にはまらなさ」は時代的な後押しがあったのだ、と思いました。
新人役者の「異」を受け入れ、妥協的を探るその懐の深さ。
「契約」とか「スポンサー」とか「事務所」とか、今のがんじがらめの環境とも違っていたのかも知れません。

「太陽のほえろ!」も斬新な番組だったのでしょう。
ショーケンにしても、松田優作にしても、ドラマそのものがテレビ時代の幕開け的な要素があり、模索しながら制作する時代背景に乗っかれた「幸せな新人」だったのだと思いました。

スターと呼ばれる人がいなくなった、という声がありますが、これだけのドラマが作られ、コンテンツの数が増え、アミューズメントの世界が広がった今の時代、誰が見てもあこがれる、という俳優なり、歌手なり、スターが生まれることが「大変」になったのだと思うのです。

「太陽にほえろ!」はレコーダーもない時代、リアルタイムで見ないと見逃してしまう、そのドラマを観ないとクラスの会話に入れない、そんな時代でもありました。
「う~ん、まだ録画しているだけ。みるかどうかもわからない」っていう今の時代とは隔世の感があります。
「大衆」が存在し、ムーブメントがあり、一夜にして世に知られる「スターになること」が出来た、ある意味いい時代だったのです。

考えようによっては、今こそ生き残ることが難しい時代だと思います。
一度通用したことが、次には飽きられる、匙加減一つですべてが変わる時代。

どこかで見たような「既視感」がはびこり、なかなか大ヒットが作り出せない。
世代格差は広がり、「全世代受け」のモノづくりが難しい。

何が言いたいのかというと、「骨太な役者」がいなくなった、というヤツは時代から取り残された化石なオヤジだ、と。
今必要なのは「野生」ではなく「知性」で、「感性」よりも「品性」だ、と。

言ってみれば、松田優作は若くして亡くなり、ショーケンはその私生活も荒れに荒れて、混沌とした時代を過ごした。
必ずしも役者人生を全うしたとは言えない人たちだったわけです。
そういった意味では「太く短く」を全うしたとも言えますが。

役者も100年時代を生きることを視野にいれる必要がでてきたと思います。

今なお現役の近藤正臣、里見浩太朗、北大路欣也、何かどこか「ソフィスケートされ」いらないものを「そぎ落とし」、「面白み」を身に着けた、そんな人たちです。

「骨太」が決していいとは言えず、「細く長く」を目指すのもありで、俳優たちも「アクターライフプラン」が必要な時代になっている、ってことです。