3月11日には『防災』を語らなくてはならないと思ってしまうのは、横並び的ではあります。
7年前の今日あの時間、普段の職場は4階なのですが、半休をとって銀行でお金をおろしていました。なぜだったか(記憶は全くなく)ATMではなく、窓口を利用していたのですが、ギリギリお金をおろすことができ、行員の人の誘導で銀行の駐車場に身をかがめた記憶が鮮明です。知らない人たちとその揺れに恐怖を感じながら道路の電柱を眺めていました。
その時思ったことは、「震源地はまさにここだ」ということでした。(ではなかったけど)今までに感じたことのない揺れ、駐車場が波打っていて、その激しさに恐怖を感じ、体が震えました。
その地震の強さは(誰しも)体験したことはなく、この世の終わりとも思いました。
それでも、ラッキーだったのは職場ではなく、近くの銀行にいたことでした。通常業務だったら職場に残っていた人たち全員グランドにとどめ置かれ、その後約2時間、帰れなかったのです。
今でもその時の上層部の判断はそれでよかったのか、と疑問に思います。中にはこっそり自主退出した人もいたそうです。2時間の間に情報収集をしていたのか、誰かの指示を待っていたのか、今でもなぞです。
寒い日だったので、管理課が毛布をどこからか持ってきたとか。そんなことより、帰る方が先でしょ!と思うのですが。
『安全確保』とはどうゆうことをいうのか。5時半過ぎにやっと帰ることが出来たのだそうです。
そして、その後の私ですが、どうにか最大の揺れが収まって、ともかく帰らねばと車に乗り込み、信号は止まっていたけれどなんとか無事帰宅。。家から一番近い支店だったので、信号も2か所しかなく、あっという間に帰り着き、庭で顔をこわばらせた娘たちを見たときにはホッとしました。家の塀は崩れ落ちていたけれど、建物は無事、壊れたものはほとんどありませんでした。
ちょうど下の娘の大学が決まり、上の娘のアパートを引き払い、二人で住むアパートに引っ越しをするための手伝いに行く、という前の日だったのです。
引っ越しは1週間後だったので、かたずけを引き延ばすことで予定を変更しました。
直後の私と上の娘のau携帯は不通、下の娘の買ったばかりのiphoneが一瞬繋がり、震源地は「東北」で甚大な被害、というニュースを知りました。でもその後つながらなくなりました。
そして次の日の朝4時に電気が回復。その後の記憶はあいまいです。次の日、ガソリンを入れるのに時間がかかったこと(それでも10分くらい)。あとは計画停電で寒かったこと。
上の娘の引っ越しは順調でした。東京では交通機関もなんとか普通に戻りつつあって、スーパーにも品物が普通にあり、地方とは違っていました。
あっちこっちでご飯を食べて、楽しいひと時を過ごしました。(確かに余震は東京でも頻繁に感じました)
それもこれも、無事でいたからこその『引っ越し』でした。
と言うわけで、私の3.11の記憶は「銀行」と「引っ越し」この二つなのです。