2世タレントの苦悩を考えた


「1周回って知らない話」を見ていたら、2世タレントの「再起をかける」的企画のコーナーがあって興味をひかれました。数年活動をしているのだれど、目がなかなかでなくて苦しんでいる2世たちに、きっかけを「つかむ」的な企画でした。
研ナオコの娘「ひとみ」、多岐川裕美の娘「華子」、西岡徳間の娘「優機」の3人。それぞれ親の名前を名乗らないで「なんとか独り立ちをしたい」ともがいていました。生まれたときから「成功した親」がいる彼女たちって幸せなのだけれど、その一方で「不幸」でもあるんだなあとしみじみ思いました。

大人になってから体験する「地道な努力」がいかに大変かを感じる。おそらく遅すぎるのでは、と思いました。
フツーの家庭で育っていれば体験しない「豊かな日常」、親の交友関係からも「華やかな芸能界」を感じずにはいられない。
でも、実際に自分が身を置いて体験する「ギャップ」
いくら親に「芸能界は大変な世界」と諭されても、それでも「やってみたい」と思わずにいられない環境におかれてしまうところに彼らの不幸があるような気がしました。

とりあえずの「デビュー」ができてしまうところにも彼らの不幸があります。
自分でつかんだチャンスではないので、それが自信につながらない。
番組を見て感じたのはやはり「チャンスは自分でつかめ」ということ。デビューをさせてあとは「しぼむ」という体験は非情なものだと思いました。

それと合わせて感じたのは「何がしたいか」を明確に持たないとだめなのでは、ということです。
「ひとみ」さんは本当に歌が歌いたいのか。「華子」さんは何がしたいのか。「優機」さんは何を演じて何を訴えたいのか。
かわいそうだけど、やはり「何かが足りない」と感じずにはいられませんでした。

表現したいものがある。自分はここにいる!私を見て!
舞台に立ちたい自分、演じたい自分、歌いたい自分、なんでもいいからパフォーマンスをしたいもの、観客に見てもらいたいもの、聴いてもらいたいものがある、その意思の強さが「チャンス」をつかむのではないか、と思った次第です。

研ナオコの「なんでもやってやる」的な貪欲さ、多岐川裕美の「女優である自分が好き」的な自己愛の強さ、西岡徳間の「さあオレを使ってくれ。どんな役でもどんとこい」的な努力。残っている人には「理由」がある気がします。
そんな「なぜ残っていることができるのか」をとことん追求し、その「努力」を続けることをしていないといけない。

単純だけど、とても大変な「道のり」なのだとつくづく思いました。
成功に「近道なし」です。