大山捨松、貴婦人として生きた人


消えたブログの中に「大山捨松」を書いたものがあったのですが、この前のNHKBS「知恵泉 明治維新の不都合な真実」で、捨松の兄たち、山川浩と山川健次郎が取り上げられていました。二人の執筆した「京都守護職始末」は藩主だった松平容保が孝明天皇から御宸翰(天皇自筆の手紙)をもらったことを後世に伝えたい思いで書いたそうです。つまり、会津藩逆賊の汚名を晴らす、という強い気持ちがあった、ということを番組で紹介していました。
さすが会津藩の武士、義理堅く、真面目です。

兄である山川浩は、軍人として、弟健次郎は学者として後世に残る実績をあげたのです。いずれにしても、優秀な一族です。ヴァッサー大学をトップクラスの成績で卒業した捨松もそんな血筋、DNAを引き継いでいたわけです。写真はヴァッサー大学時代のものだそうです。

大山捨松の生涯を考えると、前日の「松尾多勢子」の時代(境遇も違うけど)との違いを感じます。
確かに捨松は武士の家に生まれ、アメリカ留学を果たし、大山巌と結婚、貴婦人としての立ち居振る舞いを含め、美貌とすらりとしたスタイルで、「鹿鳴館の華」とも言われました。共に留学した津田梅子の学校設立の力になったり、チャリティーやボランティア活動の草分け的存在になったりするのですが、「陰ながらの力」を尽くした人なのだと思います。捨松自身の力で何かをした、捨松自身がどうしてもこれがしたかった、ということではないのです。

明治政府も「女子留学生を送った」ものの、その人材をどう活かすかを全く考えてなかったことにも原因があるのです。日本語をほとんど忘れた彼女たちの不幸も「行かせたまま」な政府の責任でもあると感じます。
「優秀な人材」を活かすことができない、なんか今の日本にも通じるのではと、150年前となんら変わっていないことにも驚きます。

津田梅子が学校をつくろうとするときに、「捨松こそこれを(学校設立)するべきなのに」と捨松の結婚に異を唱えるようなことを書いた手紙が残っているそうです。
梅子自身も認めていた、捨松の「力」を発揮することはなかったわけです。大山巌が亡くなると、公の場に姿を見せることもなく、ひっそりとした余生を送った、そうです。その歳56、早すぎる!!

捨松よりも50年先に生まれていた松尾多勢子が隠居後、自分の意志で京都に赴き、自分のやりたいことをした(できた)とは反対の生き方をした捨松。明治という時代が軌道に乗った時期、「日本のイメージをより上に上に」に乗らされて、「明治政府」というでっかいものから型にはめられた、そんな気がするのです。
「混沌と混乱」は恐怖や無秩序を生むけれど、つかみとる意志があれば、「自由」でもあるのだ、ということではないでしょうか。捨松に流れる会津のDNA、どこか真面目で固く、紀律に沿うような気質があったのでは、とも思います。

大山巌は捨松と結婚した時には、42歳で捨松とは18歳も歳の差がありました。巌の先妻が亡くなり、3人の女の子が残されていたこともあり、周りが「再婚」を勧めるにあたり、もう一人の留学生だった永井しげ(繁子)と瓜生外吉の結婚式で巌自身が捨松を見初め、しげと外吉たちが巌と捨松との結婚を仲立ちしたそうです。

日本最初の留学生三人のたどった道はいろいろです。
世間の「結婚」という当時では当然の「圧力」から逃れた津田梅子、軍人と結婚してずっと働くことを選んだ瓜生繁子(前出もう一人のアメリカ留学生)。それでも、三人のはぐくんだ友情、何かあれば飛んで行って励ましたり、慰めたりしたその関係は、「学友」という関係よりももっと強い「戦友」的なものだったのかも、と思います。