松尾多勢子は幕末勤王志士のおばちゃん


昨日の大河「西郷どん」での島津斉興と息子の斉彬のロシアンルーレット対決、すごかった。鹿賀丈史と渡辺謙の迫力、役者の力を感じました。
やっと藩主になれた斉彬、西郷(鈴木亮平)ともやっと出会えます。(子役の時に一度会ってるけどネ)

ところで、今日私が注目したのは、「松尾多勢子」。幕末尊王志士に数えられる女性です。写真が残っているので、また想像を膨らませることができるのです。そしてこの写真がまた「リアルなおばちゃん」なのです。↓

でしょう?Wikipediaでは年齢が載っていなかったのだけど、他の本で52歳頃、という説明があり、「えっ」とびっくりした次第です。そして、このフツーのおばちゃんが最後は岩倉具視の参事と呼ばれるまでになった、というのだから驚きです。あの頭の切れた岩倉具視が見込んで使ったということであれば、多勢子さんの仕事の出来具合は、相当のものだったのでしょう。

多勢子は、1811年に今の長野県飯田市に生まれました。家は豪農、多勢子の父が教養人で、多勢子は読み書きに加え、和歌まで習うことが出来たのです。19歳で県内の伊那谷伴野村の松尾家(こちらもやはり豪農)に嫁ぎ、次々と子を産み(なんと10人!)、隠居するまで必死に働いたそうです。そして、隠居した52歳の時、京都へ行きたい気持ちが収まらず、夫の了解も得て、実行に移すわけです。

1863年頃、ちょうど尊王攘夷とそれを押さえるべく幕府との攻防、なんとも物騒な京都へよくぞ、というふうに思います。止めても聞かなかったのでしょう。夫は病弱だったとか。優しい人だったと思います、間違いなく。
もちろん多勢子は京都で和歌を勉強したい気持ち、平田学派(国学で尊王攘夷の支柱となる)との交流をしたい思い、突き動かされたのがそもそものきっかけです。
そして、京都へ来るや、公家の家にも歌会で出入りするようになり、佐幕派とみられていた岩倉具視の目付役も仰せつかるのです。

前出の岩倉家の参事は、目付としての役目から、勤王志士たちへ岩倉具視を「安全(佐幕派ではない)」と説得、仲立ちをした形になったのがきっかけだったようです。

ほら、すごくやり手。
まあ、この写真の風貌で、「ただのおばちゃん(というより老女)」は誰も怪しまない、受けいれられるのがとても簡単だったことも大きな要因だったようです。

そして、勤王志士たちの「母的な存在」としてかくまってあげたり、連絡をとったり、情報を収集したりという、一部「007」的活躍をするわけです。すご~い!ともかくこのやたら男臭い幕末の動乱時に、「オバちゃん」が活躍していたなんて、痛快です。

豪農とはいえ、フツーのおばちゃんが自分の教養とちょっとしたお金(家のお金はあったでしょう)でここまで名を馳せたのは、すごい!と思うのです。肝の座り具合、頭の良さ、何より懐の深さ、志士たちにとって、やはり「頼りがい」のある人だったと思うのです。

自分の意志で長野の山奥から出てきて、あこがれの京都で活躍。しかも50歳を過ぎて。
やはり、幼少から学んだ教養によって培われた「思考力」が多勢子を突き動かしたのだと思います。その「思考力」は多勢子を性別や職業・身分を軽く超えさせる力となりました。

晩年は、自宅で農業や養蚕をして過ごしたとか。84歳で亡くなります。楽しい人生だったのではないか、と思います。