「アンという名の少女」と「赤毛のアンの秘密」(小倉千加子)



NHK日曜日放送の「100日の郎君」が終わってから「アンという名の少女」が始まりました。
L.M.モンゴメリー好きの私としては、原作との違いも気になり視聴し始めたのですが、原作からユーモアを取り除き、リアルを追求したらこうなるのかという「ハード」なものになっていてちょっと驚きました。

アンがグリーンゲイブルスに来る前の描写がキツイ。
双子がいる子だくさんの家庭での「子守」として引き取られた日々、孤児院でのいじめがフラッシュバックのように映像としてよみがえる。

3話までの場面も原作にないエピソードが多々あり、胸が痛くなること多数。
マリラのブローチがなくなって、アンを疑うエピソードは、もう少し後だったし(アンを引き取ると決めた後)、アンを引き取ると決めるのにもそんなに時間からなかった。
(原作では、ピクニックを楽しみにしていたアンは「正直に言ったら許す」とマリラに言われて無くしたと嘘をついて、結局マリラに部屋にいるよう罰を受ける。その後マリラがブローチを見つけ、アンはちょっと遅れたものの晴れて「ピクニック」に行けた、というエピソードです)

何より「孤児院」には返されてはいない。
「孤児院」の描写もなかなかキツかった。(院長の氷のような冷たい態度!!)
(あしながおじさんでも、ジェーン・エアでも「孤児院」はやっぱり楽しくないところと描かれている)

このドラマとは別にたまたま「赤毛のアンの秘密」(小倉千加子著)を読んだのですが、「アン」というよりL.M.モンゴメリーの生涯を分析し、そして「アン」がどのように日本女性に影響を与えたかが書かれていて、面白く読みました。(日本人女性が「アン」のように最後に男性に譲る人生を選ぶ、という部分は共感)

思うに、L.M.モンゴメリーは時代に迎合する(植え付けられた)「意識」と(物語を書きたいという)「欲」のはざまで押しつぶされたのだと思いました。
ビクトリア時代(また、ルーツがイギリスであることのプライドがすごくあったらしい)の女性としての分別やら義務やら優雅さ「結婚」「妻」「子」「介護」という枠に収まらなくてはいけないという(植え付けられたとはいえ自分自身が頑なに信じてもいた)信念と「書く」という体力も精神も追い詰める作業を担ってしまった「荷重人生」。

夫の病気(うつ病)をひたすら隠し、子を産みつつ、作品を書く。
夫の職業(牧師)のため世間体を繕い、よい娘・女性・妻・母のこうあらねばという呪縛。

でも、「書きたい」「作家として成功したい」もっと、もっと・・・・・
祖母の介護の後結婚し、当時としては遅かったであろう、30代での妊娠出産。
教師としての資格もあり、自活しながらゆっくりと作家を目指すことも十分にできたであろうに、本能を隅に追いやって、超人的「あれもこれも」の人生の選択をしてしまった。

その「なにもかも完璧を目指す葛藤」がL.M.モンゴメリーを追い詰めたんだと思うのです。

L.M.モンゴメリーは「赤毛のアン」だけでない、私の好きな「もつれた蜘蛛の巣」はもう少し多様性があると思うし、L.M.モンゴメリー自身もどこかに「結婚」だけじゃない人生があるかも?って思いはじめてたんじゃないかなあ?

「アンという名の少女」は「フェミニズム」の視点もからめ、現代にも十分通じるドラマになっているらしい。
楽しみです。