ボーナスのもらえない人たちへ ~ストレスのためない働きかた~

「働き続けるモチベーション」を保つには、蒲生氏郷ではないですが、「褒賞」と「情」が必要で現代風な言葉に置き換えると、「マネー」と「承認(いいね!)」、私たちも戦国武将と変わりがないわけです。

それでも、やっぱり氏郷のように、理不尽な理由でなかなか認められない人が多くいるわけで、なんかぶっちゃけちゃうと、「ボーナス」を貰っている人がいる中で、「時給制」の人はありません、という図はやっぱり「なんかなあ」という気持ちになってしまうのはしかたがないと思うのです。

そうです、自分のことです。
でも、この歳で、「転職するぞ!」なんていう気概も場所もないわけで、「何かでもとをとろうとする」のはあの富士そばの会長さんが言っていた通り、例えば「誰か〇〇を手伝ってくれませんか?」という言葉にも、「時給制の私たちが手をあげる必要はない」という後ろ向きな思いになるのは致し方がない、と思います。

それでも先が見えてきたこのパート人生も、できたら(理不尽な思いはあれど)気持ちよく勤めたい、それにはどうしたらいいかを考えました。

結論から言えば、この「後ろ向き気持ち」を否定することはないと思うのです。

だって自分の気持ちを偽ることはないわけで、理不尽な思いは思いで受け止め、できないものはできない、と断ることが自分の気持ちを守ることでもあるし、「損得勘定」を頭の隅においておくことは必要です。

先日、お昼の時間にある部屋の鍵を開ける、という単純なことを頼まれたのです。
90分の間(授業1限分)のどこか?というざっくりとした約束で、思わず「90分間の拘束はあまりにも理不尽、約束できる時間をもっと狭めて欲しい」とはっきり言葉に出し、きっちりとした指定時間に変更してもらった、という経緯がありました。

「90分は理不尽」という不服申し立てをしたをした私の心理を説明すると、「Yse,を言わなかった申し訳なさ」よりも言って「すっきり」した自分を自覚したのです。
つまり、言いたいことを言えた自分を誉めてあげたい気分だった、ってことです。

自分の中の不平不満をあげつらうのではなく、具体的に「こうしてほしい」ということは悪くないのだと思います。
「No,と言えない日本人」という本のタイトルがありましたが、「No,but~」と言えば全くの否定形にならないのではないか、と思うのです。
これはだめだけど、こうならいいよ、という文型です。

ストレスをためるな!ってことです。
できないことはできないといいましょう。
この仕事をボーナスでも、一時金でも、あなたよりももらっている人にやってもらいましょう。

自分は全然悪くない、って思って仕事をしていけたらこんないいことはありません。
あと数年、テキトーにたらたら働いてお金をもらいましょう。
そんな超ふてぶてしいパート人生を送りたいと思います。(うわ~!雇い主だったらクビにして~っ!)

ただし、できること、やるべきことはキッチリ、という但し書きはあることを忘れないで。(自分に向けての言葉でもあります)