「“冒険の共有” 栗城史多の見果てぬ夢」


NHKスペシャル「“冒険の共有” 栗城史多の見果てぬ夢」を観ました。
一切登山関しての知識がなく、去年下山途中で亡くなったというニュースを見たくらいの記憶だったのですが、番組には思わず見入ってしまいました。

「冒険の共有」という言葉にSNS時代の象徴ともいうべきものが凝縮されていると思います
登頂すれば賞賛、失敗すれば非難と中傷、その匿名の書き込みが彼を追い詰めた、という単純なことではないと思うのですが、最後の「エベレスト挑戦」は誰のため?という問いには迷わず、「スポンサーと視聴者のため」という答えがあったのではないか、と断言出来そうな気がしました。

彼の登山をサポートした登山家の花谷さんが彼にアドバイスとして言った言葉「山を見ないで自分を見ろ」は、「成果を上げることに躍起になるのではなく、自分を大切にしろ」という意味だったのだと思うのです。
その言葉を無視していたわけではないと思うものの、栗城さんを駆り立てたのは不特定多数の人に「勇気」を与えること、という極めてナイーブな漠然とした「共有」だったのでしょう。

もともとの栗木さんの性格がとっても真面目で、ともかく誰かの役に立ちたい、という思い、それが自分を追い詰め、結果を求め過ぎたのではないかと思いました。
プロダクションに所属し、カメラマンが付き、ライブでネット中継をする、時代の最先端、誰も見たことのない映像が瞬時に見られる、斬新なアイデアにも追い詰められました。

純粋に登りたいという気持ち以上に、他の目的が追加されることは危険です。どうしても無理が重なるからです。自然の前で人間は謙虚でなければいけません。人間は本当にちっぽけなのですから

山岳映画監督のジェニファー・ピードンさんが言った言葉です。

一方で、著名な登山家でも(山で)命を落とすことがまれなコトではない事実があります。
その人達全員が「違う目的」を持ってしまって危険な目にあったのか?
栗城さんだけが「無謀」だったのか?
彼の足跡を辿り、分析し、「登山」の今後に生かすことがベストなのだと思います。
いずれにしても、「山」は危険で、人の命は儚い、ということが言えるのでしょう。
それゆえ、人は山に魅了されるのです。(想像の領域です)

番組の最後、栗城さんの父親がお墓に花を手向ける場面が映し出されました。
一番近い身内として応援していただろうし、励ましてもいただろう。
「(息子を)止められなかった後悔」もあるでしょう。
その複雑な心境をカメラで語ることなく終わってしまったことで、より一層の「父の無念」を感じました。