先人たちの底力 知恵泉「嫌われ者の極意 蒲生氏郷秀吉に”恐れられた男”」タイトルは長いけれど、先週の「本多正信」に続いて面白かった。
戦国武将といえども組織人でもあり、上司によって自分の運命も翻弄されてしまうのは、400年たった今と同じであることに驚きます。
「運命の分岐点」は信長の死、『本能寺の変』でしょう。秀吉ではなく、信長が生きていればもっと重用され、「歴史に埋もれた武将」ではなかったかもしれません。
(とはいえ、氏郷は1595年に39歳で亡くなっているので、天下をとるまでにはならなかったでしょう)
「秀吉」は天下取りをほぼ成し遂げたにもかかわらず、「秀頼」を跡取りにすることだけが最優先になり、自分亡き後の構想が今一つ弱かったのではないか、と思うのです。弟秀長が病死、甥の秀次には切腹、幼少の秀頼を支える人物が「前田利家」(すぐ亡くなるし)だけでは足りなかった。
ドラマでの情報を収集すると、主力の武将たちが朝鮮に出兵、その後の褒美のなさ(っていうか勝ってないし、朝鮮だし)と行ったものが「損」をした感が不満を募らせ、皆に嫌われていた「石田三成」が豊臣家の後を担ったのが悪かった。
三成後の「大野治長」も武断派な感じではなさそうだし。
正室の高台院(ねね)が、豊臣家の天下取りには興味を示さなかったのもマイナスでした。(ある意味この高台院が「関ヶ原の戦い」の勝負を決めた、という人もいるくらい)
で、何が言いたいかというと、秀吉は徹底的にできる武将(武力と知力を兼ね備えた)を「側近」におくことはしなかった、ということです。
自分を振り返り、「できるヤツは『天下を取りにくる』、つまり自分の敵になる」と思っていたのではないでしょうか。
黒田官兵衛しかり、です。
一代で大きくなった会社を息子に継がせたくて、優秀な部下を地方に転勤させ、本社が手薄、後継ぎは育ち切らないまま結局本丸から崩れてゆく構図です。
ともかく蒲生氏郷は、「会津」(その前は伊勢松ヶ島)に転勤させられ、しかし、実力をいかんなく発揮、「支社」を発展させることに尽力、見事にその目的は達成されたのです。
上司に嫌われたら部下の心を掌握することを目指し、(嫌われている上司)の要求に応える。
組織で生きてゆく上で「使命」を果たすには家臣に好かれ、家臣が自分のために必死で働き結果を出す、そのことを理解していた氏郷。
そのために部下へのもてなしに風呂をたく、酒を注ぐ。
部下への褒賞を自分たちだけで話し合い、決めさせるなんて、平等性と公平性、何より民主的な先見性に驚かされます。
与えられたものではなく、あるもので何ができるかを工夫をした人です。
そして会津の地を「漆器」「酒づくり」等の基盤を作り、北の伊達家ににらみをきかせることのできるしっかりとした「国」をつくったのです。
ほうびだけ与えても情がなければうまくいかない。情だけでほうびがなくてもいけない。実利と情はどちらも必要である。
この言葉なんて、現代の私たちにも一分の隙もなく当てはまります。
「できた上司」としての名声をもう少しとどろかせてもいい、と思った「蒲生氏郷」でした。