「日大アメフト」と「加計」を考えた


日大アメフトの反則プレーと「森友」「加計」の首相忖度が似ていると話題になっています。
繰り返し同じようなことを書いてしまうのだけれど、この「組織」が持つ「魔力」を考えてみたいと思います。

池井戸潤の小説にちょっとハマったことがあって、その中ですごく面白いと思ったのが「七つの会議」
一見脈絡ないような話が繋がって行き、最後に「悪」にたどり着くそのストーリーの展開にすごく感動しました。全く冴えない人が不正を暴くその快感もさらに小説を面白くしています。
人の命が危険にさらされても、「守りたいものは会社という組織」その心理の根深さはどこか日本的な気がするのです。

そして、いつも思うのは、「不正」は簡単に行われ、組織的に隠蔽され、大人数で共有された「秘密」は簡単には白日のもとには晒されない。
ほころびがあちこちに出ても、肝心な決定的証拠は握りつぶされ、トップが抱え込み、責任者が否定すれば守れれるものなのです。
下のものが異を唱えても、カンタンに吹き飛ばされ、握りつぶすために人事権を振りかざす。

これもいつも思うのですが、日本軍が大量の人民を犠牲にしてまでも「日本という組織」を守りたかった、その心理と共通だ、と思うのです。
彼ら(「軍」のお偉いさんたち軍人)は「天皇を抱く日本」を守ろうと頑張った、それは「日本軍」を守ることと同じだと思った、そして一般国民と兵卒はそれに入っていなかった、ということなのだと思うのです。
自分たちは「いつでも死ねるけど、この国を守る使命がある」と考え、その犠牲者たちの数は気にしなかった。
なぜなら「天皇」を守るもの(自分たち)が日本を守る(力がある)ものだから、組織を守る人だから。

「七つの会議」では、会社を守るために組織ぐるみで隠ぺいに奔走します。組織を守ることは(その背後にいる大勢の)家族を守ることで、自分たちは全く悪くなく、当然のことをしている「錯覚」に陥ります。
大勢の錯覚は個の錯覚と違い、とても強力で、安心感があるので、それが「思考停止」だとは気づきません。
その「罪悪感の無さ」に愕然とします。
何か「チームが勝つこと」「官邸が安泰でいること」「軍が存続すること」「会社が守られること」すべて似ていると思うのです。

そこには、「個」がない。「倫理」も「正義」もない。
ルールを守らなくてはならない、ということが端(はし)に追いやられるのです。
アメフトの反則プレイは、思わずやっちゃうこともあるでしょう。
今回のは、それとは違う、「指示」だった恐ろしさなのです。
こわいのは、組織が一体となって正義を追いやり、誰もその罪悪感を持つことなく、それが当たり前になることなのです。
自分のためでなく、「組織」のためにやっていると心から思うとき、その一体感に一種の「高揚感」「達成感」も生まれることが恐ろしいのです。

日大アメフトの選手が可哀想だったのは、ただ一人で追い詰められたことです。
思考をすることをさせず、「レギュラーポジション」を餌に、やらせた。
「命令したものよりも実行したものの心理的負担」、20歳で背負うその傷を思いやらなかった人達の罪はとても重いと思います。
巨大な「権力」が物言わぬ組織(集団)を作り上げた日大アメフト部。
「不正」も「反則」も「権力者の物差し」によって正しいものになった、その典型です。
20歳の若者よりも、監督、コーチが社会的な制裁を受けるべき、と思います。

そして、追い詰められても、「個人で思考できる力」を持たなくてはいけない、それは生を受けたときからでなければいけない、と思うのです。