「82年生まれ、キム・ジヨン」



「82年生まれ、キム・ジヨン」の映画を観ました。
本のラストとは違い、「完璧ハッピーエンド」となった映画のラスト、いきなりのご都合主義的な感じはしたけれど、「視覚的」には救われます。

それにしても家庭での男子優位、職場での仕事を優先する女性への揶揄、結婚後の夫の実家での扱い、子持ち女性に対する蔑視、あれだけストレートに感情表現をする韓国女性がどうやって耐えてきたのだろうと不思議な感じがします。

日本男性の家事協力の圧倒的時間の少なさ・女性政治家・企業における重役の少なさはOECD加盟国でも最低で、女性の生きずらさは韓国と似ているけれど、ここまで露骨ではないと思ったのは、日本人がストレートにものを言わない国民性だからか、とも思いました。

そして、日本では「家」に対する意識があっても、「男子直系」にこだわりがなく(「天皇家」は別にして)、婿を迎えることはハードルが低く、そこらへんの感覚が韓国とは違う気がしました。

韓国男性に降りかかる「兵役」、それゆえ男性たちが性別的役割分業の意識に結び付くのかとも思いました。
プラス「儒教」の精神からくる目上の人と祖先に対する「絶対服従」な感覚が、夫の実家での妻の奴隷的労働になったりする。

映画のジヨン義母も、決して悪い人ではないのだろうけど、実娘が実家に帰ってきてくつろいでいるところに、「嫁」のジヨンが一人台所に立っていることに何とも思わない感覚が許せなかった。
そして、男どもが何もしないのにさらに腹が立った。

映画を通して、結局夫であるコン・ユは、大して変化をしなかったのに気が付きます。
妻を心配する、「精神科」に相談する、自分の母親にジヨンを近づけさせない。
配慮できる優しい夫ではあるのだけれど、結局自分の母親の強烈な反対で、「育休」をとることもかなわず、ジヨンが望んでいた仕事に復帰することもできなかった。

全編通して、子どもをお風呂に入れるシーンはあったけれど、食事を作るシーンは皆無だったし、ハンパな感じでした。
決してジヨンを理解はできなかったし、助けにもならなかった。(そこにジヨンの絶望があったと思う)

ジヨンはいい子だったのです。
常に気配りして、常に人の顔色を窺って、完璧を自分に課していた。
自分が悪いから男子生徒に痴漢行為をされる、自分が悪いから育児・家事にストレスを感じる、そして自分が悪いから精神的病(やまい)にかかる。

娘の病を知った母親が抱きしめて号泣するシーンは胸が痛かった。
時代だったと理不尽な自分の人生に納得していた。にもかかわらず、また同じことが娘に起こっている、その絶望に泣いたのです。
あの慟哭は、韓国全女性の慟哭でした。

ジヨンはもっと怒ってよかった。
夫にも、夫の義母にも、父親にも、社会にも。

ラストのジヨンの成功は「家庭内でジヨンの問題は解決した」、という意味だと思うのです。

本は解決させずに、全てがまだ闇の中で終わっていた。
確かに家庭内では絶対解決しない!!

社会が変わっていかないと無数のジヨンが存在したままだと、本は現実を直視していたのです。

仕事でのチャンスと報酬が平等で完璧に家事を分け合い、そしてどこへ行っても男女の役割が平等だったら(夫の実家でも妻の実家でも。韓国はそれに兵役を無くす)もっと私たちは幸せになれる。
無数のジヨンが救われます。