「赤毛のアン」~視点がマリラになる~


コロナウィルスの脅威が依然として取り払われません。

ということでやっぱりドラマ視聴三昧な日々ですが、気持ち的に楽しいものに惹かれるのが人の心というものなのでしょう。

朝ドラの「スカーレット」がちょっとつらい展開になってしまって(息子武志の病気)、脱落しそう。
3月の終盤にこの展開はキツイ。

そのドラマ三昧の中で、少しずつ読んでいるのが、松本侑子さん訳の「赤毛のアン」シリーズ。
「アンの青春」、「アンの愛情」です。
あの村岡花子が訳さなかった部分を入れて、「完訳」と銘打っているのが松本侑子訳です。

最初に読んだのは、小学校の時。
村岡花子のあとがきに、アンは進学するけど、ダイアナはしなかった。それは人はそれぞれに道があるということだ。みんなが「アン」でなくてもよい。「ダイアナ」でもいいのだ。(ざっくりしてますが)
というような趣旨で、『ダイアナになるのは嫌だなあ~。アンのように学校へ行きたい』と思ったのをよく覚えています。

「赤毛のアン」でマリラが「女の子は手に職があったほうがいい」とアンの将来を見据えて進学を考える場面があるのですが、その先見の明にもびっくりでした。

面白いことに歳ををとってみると、アンよりもマリラの視点に近づくような気がします。(家事は全く得意じゃないけど)
そして、やっぱりマシューの死の場面では「泣ける」

時代背景はビクトリア女王時代で、宗教に対する考えだったり、女性参政権はなかったりと、古い感覚は感じますが、どこか日本とは違うものもあるような気がしました。
誰もが「結婚」をするような強制もなければ、マリラとマシューが兄妹と暮らす、姉妹で暮らす、多様な人達がたくさんいるのです。
何より、「アンの青春」のラスト、夫を亡くしたリンドのおばさんとマリラがグルーンゲイブルスで暮らす計画をアンに告げる場面では、(昔感じなかった)「感動」すら覚えました。
リンドおばさんは自分の家を売り、家賃をマリラに払う、という経済的自立までも描いています。(それは互いのプライドのために必要だ、というようなこともマリラは言います)

キッチンも別にして(!!)、という構想もマリラはするのです。
そして、双子の兄妹、デイビーとドーラをマリラとレイチェル(リンドおばさん)が二人で育てる(アンは進学で家を離れるため)、というのですから、面白い。

ある意味、「アン」を育てた「マリラ」の成長物語でもある、と思いました。(マリラは影のヒロインです)

理想の愛&ロマンスを夢見る空想家なアンと超リアリストのマリラの対比。
女性の社会進出が描かれているわけではないけど、教師となり、またさらに勉強して「校長」までになるアンを描き、年配になってから血縁のない子育てをするマリラを描き、初恋をみのらせる中年女性、独身と思わせる別居中男性、なかなか多様性を感じます。

それはやはりモンゴメリーの「想像力」の豊かさ、なのでしょう。
名作とは時代が移り変わっても色褪せないものだ、ということを証明してくれます。