津田梅子 ~祝新5000円札~


新しいお札が発行されるそうです。(2024年予定、まだ先の話ですが)
5000円札には「樋口一葉」からの「津田梅子」、近代日本での初の女子留学生の一人だった人です。
言わずと知れた名門大学「津田塾」の創始者でもあります。

現5千円の樋口一葉よりも遅い生まれかと思いきや(髪の形とか着物姿とかのイメージです)、樋口一葉1872年生まれ、津田梅子は1864年生まれでした。
樋口一葉が24歳という若さで(結核)亡くなっているので、よりそんな感じがしてしまうのかも知れません。

いずれにしても、共にあの明治の時代に生まれて、自立した女性としての「実績」を残した驚くべき人たちであることには変わりありません。

樋口一葉が「文学者」なら津田梅子は、どちらかというと、「理系女子」だったのかもしれません。
長い留学生活から帰国して、華族女学校(今の学習院女子中・高等科)で教えていたのですが、良妻賢母を育てる教育方針と合わず、プライベートでのごたごたもあり、再び留学します。
その時学んだ学問が「生物学」で、なんとカエルの卵の研究だったとか。
梅子の才能を見込んだ教授たちは、もっと残って研究を続けるよう説得したのですが、「日本の女子教育のために」と日本に戻ります。

前出のプライベートのごたごたは、結婚を迫る周囲への反発、「二度と結婚のことは話題にしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と手紙で愚痴ったほどだったとか。
明治の時代にこんなことが言える人ってすごい!と思います。
一生を自分の力で食べていく覚悟を持っていた人、一緒に留学していた山川捨松(結婚後大山捨松)と永井繁子(結婚後瓜生繁子)が軍人の伴侶を得たということにも動ぜず、頑固な人だったのでしょう。

そして、自分の教育方針、経営方針を直接反映するには、自らの学校を創ることが一番と、それが可能になるや、寄附を募り行動を開始します。
その時には二人の友人大山捨松と瓜生繁子も協力、結婚後もその友情は変わらなかったようです。

ところで、「津田塾」の前身「女子英学塾」は、少人数制の身分制度にとらわれない、進歩的で自由なレベルの高い「授業」を行ったらしいのですが、厳しさのあまり脱落する学生もいたとか。(Wikipediaより)

津田梅子自身も教壇に立ち「ノウ、ノウ、ワンスモア、ワンスモア」と何度も発音を繰り返させた、というエピソードを読んだことがあります。

絶対、「脱落組」に入る自信があります。(私)

わずか6歳でアメリカに10年以上留学していた梅子は、覚えていた日本語もあっという間に忘れ、帰国後は、家族との会話にも困るようになってしまったとか。
帰国後、ある程度の会話と読み書きは習得したのですが、学校の設立等、難しい日本語にになるとお手上げで、通訳をともなったそうです。(フランス語の方がはるかに簡単と言ったとか)

母語の大切さ。
アメリカでの日本語教育こそ大切だったのだと思うのですが、誰もそんなことを考える人はいなかったのでしょうね。

でも、津田梅子にその後悔はなかったはずです。
「前進」あるのみの人、だったでしょう。