ボヘミアン・ラプソディ ~淡く力強く美しく~


「ボヘミアン・ラプソディー」が大ヒットのようです。
伝説のバンド、「クィーン」のフレディ・マーキュリーを中心に描いたのドキュメンタリータッチの映画です。
なつかしくもほろ苦い思い出(混沌としたハイティーン時代)と共に視聴しました。

中学のクラスでは、既に「クィーン」のファンの子たちがいて、毎日キャキャ騒いでいたのを思い出します。
彼女たちは確かコンサートにも行ったはず。
今考えると、早熟で、鋭い感覚を持っていた子たちだったのだと思います。
もちろん、「キラークィーン」あたりのシングルレコードを買った記憶はあるのだけれど、生クィーンを観たい!というところまではいかなかった。
14.5歳で「フレディ~」「ブライアン~」「ロジャー~」「ジョン~」とラブを語っていた女の子たちから比べると、(自分は)子どもだったのだと思います。

その中の一人の女子が「日本の歌は「恋愛」の歌ばっかり。(確かに時代はフォークかアイドルの時代【中三トリオとか新御三家とか】)
クィーンの歌はもっと「広い世界」がある」というようなことを熱く語っていたのが印象的でした。
そしてそのときのバンドがずっとこの2018年まで色褪せない「バンド」になるなんて思ってもみませんでした。

そんなことを思いだしながら「ボヘミアン・ラプソディー」を観ました。
よくできていると思います(上からの目線)

フレディー・マーキュリーを演じたラミ・マレックは絶賛されています。
個人的に言えば、「フレディーの方が背が高いじゃない」と思いながら観ていたのですが、実際は本物のフレディが2cm高いだけでした。
(おそらく)フレディの足が長かったのでしょう。バランスの問題でした。(まあこれはささいなこと)

中東出身であるというイギリス社会でのコンプレックスとセクシャリティーの問題。
クィーンが有名になって売れていっても、その根っこにある問題は解決しない。
むしろ、有名になればなるほど、「孤独」を深めるフレディに心が痛みました。
もう少し遅く生まれれば、エイズ発症も薬で避けられたし、セクシャリティーもあの時ほど注目されなかったかもしれない。

でも、「もしも」の話ではなく、時代を一気に駆け抜けた「フレディー・マーキュリー」の人生は、決して孤独ではなかったのだと思います。
一時の「ソロ」から再びの「4人」、最後のパートナー、ジム・ハットンとの出会い、何より最後の希望は「音楽」だったはず。
音楽に魅せられた一人の「天才」がたどった人生を見せてもらった、そんな感じです。

1985年のライブエイドのラストシーンはまさに「鳥肌」ものです。
フレディーのボーカルが観客を熱狂させる、その熱狂にフレディーが応える、クィーンのバンドがそのフレディーと共に最高のパフォーマンスをする。
ライブとは、こんないくつもの「要素」が重なって出来上がるものだ、ということをこの映画が伝えてくれます。
フレディー・マーキュリーの映画にはなっているけれど、誰か一人でも欠けていたらいたら「クィーン」は伝説にならなかった、それだけは確かだと思います。