東洋経済のオンラインニュースで、
「肥満」より”致死性”が高いのは「孤独」だった 会話がないと人間は死んでしまう
という見出しで記事が載っています。イギリスでは「孤独追放運動」を立ち上げ、そしてメイ首相は「孤独担当相」のポストも作りました。
メイ首相は、声明で「現代生活の悲しい現実」であり、「話し相手、考えや経験を共有できる相手がいない人たちが抱える孤独に対処するために行動を起こす」と狙いを説明しています。
(ライブドアニュースより)
そう、やはり小室哲哉は、「孤独」を訴えるべきなのです。ちゃんとあの会見を見てはいないのですが、おそらく聞いてくれる人が大勢いて(記者だけど)、少し自分の思いを語る、理解してもらう、ということに心ならずもどこかに「喜び」を感じたのではないか、と思うのです。文字にしてきたことも、思いのたけを伝えたい、という気持ちがあったのだと思いました。
考えたのだけど、ホームヘルパーのような形で家を訪問し、「話し相手になる」というサービスが出来ないものか、と。食事の用意をし、一緒に食べて、片付けるまでの2時間くらいのサービスです。その間できる人は手伝ったり、できなければキッチンで座っていながらおしゃべりしたりという時間にするのです。夜の時間もOKにしたら、かなりの利用があるのではないでしょうか。
体が悪くなり、家から出られない高齢者の「孤独」、介護をしている人が陥る「孤独」、いろいろな形があると思うのですが、一番必要なのは、「話し相手」ではないでしょうか。
パソコンでのスカイプもいいけれど、やっぱり生身の人間同士の交流が求められます。
「赤毛のアン」の3作目くらいで、アンを引き取ったマリラと友だちのリンド小母さんが、一緒に住むことになったのを思い出しました。マリラは兄マシューを亡くして、リンド小母さんも夫を亡くして、しかもマリラは孤児になった双子を引き取るのです。(双子を引き取るのはリンド小母さんと暮らす前だったかな?)
今考えると、とても理にかなった「相互扶助」だったと思います。一人より二人。多少のもめ事があっても、二人でいることの「安心」を選んだのだと思うのです。
部屋数が多い外国でのメリットもあるでしょう。でも、なんかすごく「発展的」な気がします。
私達もこの二人のような関係を誰かと築けたら、夫と暮らす老後とは違った幸せを味わえるかも知れません。いずれにしても、ひとつではない「選択肢」がある、って楽しいような気がするのですが、どうでしょう。