山本周五郎の本「樅木は残った」の前に「ながい坂」を読みました。
「樅木~」のインパクトからすると少し地味ですが、「ながい坂」は主人公、三浦主水正(みうらもんどのしょう)の苦しい人生ではあるけれど、成功譚だと思います。
原田甲斐のように身分の高い武士の家柄ではなく、徒歩組という低い身分からの老中までの出世。
そういう意味では、「樅木~」とは正反対の物語です。
堰提工事と藩主を巡る攻防、農民、商人に身を変えての隠遁生活、子どもを亡くしその後遺症から精神を病むいわゆる側女ななえ、正妻つるとは紆余曲折の末の和解、そして最後に老中の息子まで立ち直させる。
山本周五郎の遺作らしいのですが、辛い人生の中にも「達成」できたものを残した喜びを感じます。
でも、身を持ち崩した者に対する態度はある種、冷ややかです。
三浦主水正の実の家族、酒におぼれる恩師に対するあきらめの見解。
恩師であろうが、親であろうが、ばさ~っと切る。
老中の息子を最後に救うのは、彼に「自己葛藤」を見たからです。
己の情けなさを憂う姿を知り、「立ち直れる」要素を見つける。
生まれの良さ、持って生まれた才がありながら、父への反発から浪人生活をしている滝沢兵部は主水正の対をなす人物です。
青年時の主水正との勝負に負けてから加速した自己嫌悪。
そして脱落者への道を辿ってしまったのです。
山本周五郎、優しいだけの人ではなかった。
その観察眼は冷徹でもありました。
1964年~66年に書かれたらしいのですが、高度経済成長を隠喩しているとも言われたとか。
猛烈社員の出世組からしたら、父弟たちは、脱落者という位置づけだったのでしょうか。
いずれにしても、人を描いた山本周五郎、最後の場面主水正が老中として登城するために、坂を上がってゆくつらさを描き終わります。
主水正が着実に歩んできた道、上り坂(出世街道)を暗に示しているとも思います。
そしてまた道は実際に歩いてみないとわからない、という作者のメッセージでもあったのかなと思いました。
惜しむらくは、「つる」が極端に変わってしまったこと。
超上から目線で、強気だったのに、女~な感じになってしまったこと。
まあ、昭和40年頃?
男性作家の女性描写はこんなものなのでしょう。
でも、それを差し引いても面白いことは間違いない、と思うのです。
読みかえすなら、「樅木~」よりも「ながい坂」でしょう。